松井秀喜に魅せられ、駒田徳広と対面する。僕がプロ野球ファンになったわけ。

野球

 

今でこそ、縁あって仕事としてプロ野球に携わる機会をいただいている僕ですが、自分も元々は一ファンでしかありません。

そこで僕が野球に魅せられ、スタジアムに足を運ぶようになったきっかけを覚えている限り、何回かに分けて書いていくことにします。

 

実は僕は幼少期は全くスポーツに興味がありませんでした。同年代の子たちのほとんどが通るであろう、いわゆる戦隊モノにも全く関心をしめさず。

親曰くその理由は「やられる怪獣がかわいそう」だったらしいです。我ながら何とも心やさしき子供やな。

その代わりに大好きだったのは車です。当時、母の友人がよく自宅に遊びに来ており、毎回必ずトミカを買ってきてくれていました。そのおかげで現在も実家には数百台単位でトミカが残っています。

小学校2〜3年生ごろまでは外での休み時間は車ごっこ(何らかの車種に自分がなりきってブーンと走り回る独特な遊び)、室内では自由帳に車の絵ばかり描いていました。街中を走る車の車種は大抵答えられましたし、GT-RはRB26、ハチロクは4A-Gといった具合にエンジンの型番まで知っていました。

子どもの頃にどっぷりハマったマンガは頭文字Dと逮捕しちゃうぞ。こちらも車好きが読むような作品です。

 

そんな森少年が初めて野球を観に行ったのは巨人戦。1999〜2000年ごろのことです。

詳しい試合内容までは覚えていませんが、席は東京ドームの2階席でした。

そこから他の多くの子供たちがそうであったように当時のスター選手、松井秀喜選手を応援するようになります。

まだ分厚い本なんてほとんど読んだことがないのに松井秀喜選手の生い立ちが書かれた本を手に取り、松井選手がホームランを打つ度に作成される「松井秀喜ホームランカード」をお小遣いで毎月注文していました。

親戚の家が福井県だったこともあって、お願いして石川県の松井秀喜選手の実家にある建替前の松井秀喜野球の館に行ったこともあります。

 

その一方でこの頃、僕は人生で初めてプロ野球選手と会う機会を得ています。その選手は駒田徳広選手でした。ちょうど引退前後の時期だったと思います。

母と当時仲がよかった友人が元プロ野球選手と結婚し、巨人時代に同僚だった縁から駒田さんが僕の地元に野球教室のためにやってきたのでした。

僕は剣道をやっており、少年野球チームには属していなかったので、野球教室には参加できませんでしたが、特別に個別で時間をいただきました。

まだ子どもだった僕は駒田さんのすごさを理解できていませんでしたが、想像以上に体が大きかったことと握手してもらった手が分厚かったことを強く覚えています。

今思えば現役を続けるのが厳しい状況下の中で、古巣の巨人のファンだという子どもを目の前に本当によくしてくださったと思います。バット、シャツ、色紙にまでサインしていただきました。

数年経って、引退した駒田さんがマスターズリーグに出場されている時に東京ドームの内野席からネット越しに声をかけたことがあります。どの程度認識してくれていたのか定かではありませんが、僕が感じる限りでは覚えていた様子で応えてくれました。

さすがにもう覚えていないと思いますが、駒田さんはいつか再会してみたい人物の1人です。

 

僕が人生で一番最初に観戦したメモリアルゲームは2001年9月30日の東京ドームで行われた巨人vs横浜。

母親がどこからか、めったに取れない巨人戦の1階席バックネット裏のチケットを手に入れてきたのでした。

近くで大沢親分こと故・大沢啓二さんが観に来られていて、サインをいただいたのを覚えています。

そしてこの日は巨人で長年活躍した斎藤雅樹投手、槙原寛己投手、村田真一捕手の3選手の引退試合であり、長嶋茂雄監督勇退の日でした。本当にたまたまです。

正直この3選手の全盛を観ていない当時の僕にはそのすごさが理解できていませんでしたが、この歳になって振り返るとプロ野球ファン垂涎ものの試合だったことが分かります。
その後、僕は選手移籍や球界の変化の流れの中で、時期によって応援する球団を何度か変えていくことが必要になります。