前回、2001年まで松井秀喜選手のファンになって巨人を応援していたという話をしたが、その頃の僕には後楽園に行く理由がもう1つあった。
それは競馬好きなおばあちゃんの馬券購入に着いていくこと。もちろん一緒になって馬券購入するわけではない。
おばあちゃんの馬券購入に付き合うと、黄色いビルの現在ローソンになっているところにあったゲームセンターに連れていってもらえるという特典があったのだ。
車好きな僕はそこでカーレースゲームをやりたいがために朝からウインズ後楽園におばあちゃんと行っていたというわけだ。
そんなある日、昼間の東京ドームでも野球の試合をやっていることを知る。でも巨人戦ではない。
野球に関心を持ち始めた僕はゲームセンターではなく、その試合を観てみたいと言ったのだった。
それが日本ハムとの出会い。
当時の日本ハムといえば弱小で人気もなく、外野席は寝転べるほどに空いていた。
でも何となく、そのアットホームな雰囲気というか、頑張っている感じというか、そういう部分に惹かれたのだろう。
そしてその中で光り輝いていた小笠原道大選手のファンになってしまった。
マスコットキャラクターのファイティ〜ファンになった母親を巻き込んで、かなりの試合数足を運んだ。
初めてファンクラブにも入ったし、常連客と知り合いにもなった。毎回外野席に行くと席をくれる名物おじいちゃんがいて、何かとよくしてくれたものだ。
2003年から松井秀喜選手がメジャーに渡ると日本ハムへの熱はさらに高まっていった。
この頃になるとほぼ全員の選手の応援歌をマスターしていた。今も何となく歌詞を見れば音程を思い出せる。
今当時の日本ハムのデータを振り返ると打線は長打力があり、ロマンがあるが、投手陣の成績がよくない。そこは子どもらしく、ホームランの魅力に取り憑かれていたのかもしれない。
しかし、既に北海道移転は決まっていたのだ。その事実を理解したのは2003年シーズン中盤あたりだったと記憶している。
移転前最後の東京ドーム主催試合のチケットも手に入れたのだが、結局学校行事か剣道の大会と重なっていけなかった。今ももぎりされていないままのチケットを持っている。
そのため、北海道に移転し、人気が出てよかったと思う反面、縦縞ユニフォームに袖を通した選手が次々といなくなる中でどこか切なさというか寂しさを感じている。
移転初年度の2004年。日本ハムファンに巻き込んだ母親が無理をして、札幌へ連れて行ってくれた。
もちろん目的は試合観戦だ。本来、ツアーパックなどで行った方が安かったが、その目的のために個別で飛行機と宿を取ってくれたのだった。
しかし、球界再編問題で揺れていたこの年。あろうことか、観戦を予定していた日に選手会ストライキが決行されてしまう。
このままで帰るわけにはいかないと必死になって情報を集め、臨時サイン会が行われるということで札幌ドームに向かった。そこでヒルマン監督のサインをもらい、観戦できない観戦旅行は終わったのだった。
この経験から1試合1試合を選手、その他関係者、ファンは大切にして、たった1回しかないチャンスにかけてスタジアムに足を運ぶ人が最大限楽しめる空間を作ってほしいと切に願う。
日本ハムは北海道に移転してからも東京ドームでの主催試合を現在まで継続して開催しているが、当時顔見知りだった常連の姿は見かけなくなった。(顔を忘れているだけかもしれないが)
そして僕自身も2006年限りで小笠原道大選手が巨人に移籍して、日本ハムの試合はしばらく観なくなっていったのだった。